思聞のひとりごと

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help リーダーに追加 RSS 新宿「熊の子」なくして六大学全盛期は語れない

<<   作成日時 : 2008/09/05 13:26   >>

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1961年から82年まで新宿三光町、ゴールデン街の入り口に「熊の子」という店があった。
一階がお店、二階、三階が住居。

父さん(橘内政雄)母さん(信子)は札幌の出身。
二人の娘、愛称‘キンちゃん’‘ミッコ’とで切り盛りしている北海道料理の店だった。
長男理光(まさみつ)はまだ小学生。

最初に店に来たのは札幌商業出身の駒大の選手だったという。
ちなみに長女は大下剛史さん(駒大・東映・広島)と結婚している。

その後、明治の二年生だった中原英孝日大長野高校監督がセレクションに来た後輩の高校生に食事させるために飛び込みでパスタを食べに入ったのがきっかけで、同期の高田繁(ヤクルト監督)達が来るようになり、慶応・藤原真、一学年下の星野仙一、法政・田渕幸一、山本浩二。全日本の合宿で一緒だった早稲田の谷沢健一、荒川尭らも常連となっていった。

明治のマネージャー豊田洋から星野仙一を紹介されたのもそのころだ。
以来およそ40年、仙ちゃんとのつきあいは長い。

酒の飲めない彼は「熊の子」に来ると、きまって近くの蕎麦屋から‘天ぷらたぬきうどん’の出前をとる。
食べ終わると二階にあがり、店が忙しくなると降りて来てカウンターの中でビールをついだりしてお客さんの相手をする。
今では想像もつかない光景だろう。

父親を早く亡くした仙ちゃんを父さんは可愛くてたまらなかった。
四年のシーズンが終わり、合宿をでて池袋に下宿していたにもかかわらず二階で寝起きさせていた。

田渕幸一も「熊の子」の二階に入り浸っていた一人だ。

ドラフト前、巨人軍正力亨オーナー、沢田スカウトとニューオータニで密談をし、偶々他の取材で来ていたサンケイ新聞政治部の生原記者(アイク生原の兄)にスクープされ騒然となったが、この時も「熊の子」の二階で母さんの特製カレーを腹一杯食べて出掛けた。
ホテルで出された料理が特大の高級ステーキ。「これくらい食べられなかったらプロ野球ではとてもやっていけないぞ!」と言われ、無理やり口に流し込んだというエピソードもある。

あの年のドラフトで巨人軍は「うちは一位指名が田渕君で、田渕君ががをとれなかったら星野君で行くから」と本人達にも話していた。
だから彼の口から思わず「巨人は星野を島野と書き間違えたのではないか!」という言葉が出たのだ。

もう時効だが、日本球界を代表する二人の投手が偶々水商売の双生児の姉妹と交際していて、A投手が妊娠させてしまったのに何を勘違いしたのかその女性の面倒をB投手が最後までみたという笑うに笑えない話もあった。

六大学野球選手の憩いの場だった「熊の子」がシャッターを降ろしたのは1982年3月31日。

その8ヶ月後の11月26日父さんは65才で逝去。

2004年7月26日に母さんも81才で命終。
高田繁,保子夫妻が最後に見舞ったときには意識もはっきりしていたという。

全盛期の東京六大学野球を語るのに「熊の子」を外しては語れない。

あの鰻の寝床のような「熊の子」は私の青春時代の一ページでもあるのだ。

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